2007年5月20日日曜日

豪州のいじめ、損害賠償金1億円

5日前のニュースだが、豪州の裁判所がいじめの損害賠償金1億円を認めた、というニュースがあった。


「いじめで1億円賠償命令 豪州の裁判所、州政府に」(asahi.comより引用)
2007年05月15日21時08分

 小学校の時に上級生らにいじめられたため、うつ病になるなど一生働けなくなったとして、オーストラリアの18歳の男性がニューサウスウェールズ州政府を相手に損害賠償を求めた裁判で、州最高裁は14日、総額が100万豪ドル(約1億円)を超えるとみられる支払いを命じた。

 地元の報道によると、訴えていたのはシドニー北部の小学校に通っていたベンジャミン・コックスさんと両親。入学時から上級生らに殴られたり首を絞められたりするなどのいじめを受け、7歳から部屋に閉じこもるようになった。恐怖からうつ病となり、中学や高校にも通えず、現在も自室でテレビゲームをする毎日を送っているという。

 母親は学校や州政府に相談したが、担当者に「いじめられるのも人格形成に役立つ」と相手にされなかったと主張。最高裁は「彼の思春期は破壊された」と、学校が保護義務を果たさなかったとし、学校を管轄する州政府に損害賠償として21万3000豪ドルと生涯賃金相当額の支払いを命じた。弁護団によると、総額は100万豪ドルを超えるという。


日本でもいじめ問題は深刻だが、日本もそろそろこうした、「いじめ裁判」が出てきてもおかしくない時期だ。最近の司法改革でも、裁判社会の到来、ということをよく言われるし、これだけいじめ問題の件数が多くなっているのだから、それに関連する裁判もそのうち、きっと多くなるのだろう。

もっとも賠償金の金額は、この豪州のニュースで言われる1億なんていう高額な請求にはならない気がするが、件数は多くなるのではないか?

日本の学校は、民間の企業と明らかに異質なところがたくさんあるようだが、その一つは、「債務不履行」という概念が存在しないことだ。学力低下問題やいじめ問題など深刻な問題があるのに、学校や教師が平然とあぐらをかいていれるのは、結果責任(=債務不履行責任)を問われないからである。

私企業の場合、結果責任を問われる。期日までに製品を納入しないとダメ、期日までに建物を建てて引き渡さないとダメ、ということになり、製品の品質や個数も当然問われる。これが約束通りにいかないと、基本的には債務不履行責任が発生して、相手方から損害賠償請求の発生や解除権の行使などの問題が出てくる。

これに対して学校や教師にはこの種類の結果責任はなかったりする。いくら勉強(授業)が遅れようが、生徒の学力が低かろうが、いじめにあった生徒が学校に来れなくて、その結果生徒の人生がめちゃくちゃになろうが、おかまいなしにいられるのは、まさに、この結果責任が問われないからだ。

だいたい、教育という分野には債務不履行責任は、なじまないものだ。だから多くの国民は、学校や教師に対して結果責任を問うという姿勢を持たない。しかしその結果、過度に教育分野について「結果責任」を不問にしてきた節がある。

進学校における進学率の問題以外は、基本的に父兄や世間からその結果を問われない感じだろう。だが、このニュースのように裁判の問題が出てくると、事情が違ってくる。

何か学校や教師に問題があったり、違法行為、人権侵害やその他あれば、すぐに裁判で訴えられる、という社会になった場合、ある意味で教育の結果責任を厳しく問われるということになる。つまり、法律による処理という形で、その結果責任が問われてしまうのだ。

この場合、学校や教師側に非があれば、損害賠償金を取られ、確実に責任を取らされる。今までは教育行政の中で、そこそこ上手くやっていれば問題なかったのに、誤魔化しが効かない社会が到来する。もう責任を取ることから逃げる方法がなくなる。(この場合、訴訟での証拠問題があり、学校や教師に問題があっても、証拠がなくて、裁判上、生徒側の請求が通らない場合もかなり出ると思うが)

もっとも最近の教員免許更新の議論や、義務教育での学校選択制の導入など見れば分かるように、教育行政側も学校や教師に厳しくなってきている。少しは教師にやる気を出させるために、様々な工夫しようとしているようだ。そんな努力や工夫は今さら遅いとも言えるが、やらないよりはましだ。

まあ、結局、仕事(そう言えば、教師は自分たちを労働者だと言っているのに!)であるのに、何も責任を取らずして、社会が成り立つわけがないということなのだろう。行政側でいじめ問題の解決など、教育の範囲内でちゃんとできなければ、司法の分野で、つまり裁判を起こして損害賠償請求をし、問題を解決するという方法が取られる。

自分たちの問題を自分たちで解決できなければ、司法にその判断を委ねるという、社会一般で行われていることが、単に教育問題にも適用されるだけの話というわけか。