2007年7月12日木曜日

無罪判決が急増しているらしい

無罪判決が急増、というニュース。記事の記録とメモ。


「無罪判決が急増 証拠評価の厳格化の表れ?」(asahi.comより記事を引用)
2007年07月09日10時03分

 刑事裁判で無罪判決が急増している。最高裁によると、昨年は全国各地の裁判所で計126人(速報値)に無罪が言い渡されており、10年前の2倍以上にのぼる。市民が裁判官とともに重大事件の審理にあたる裁判員制度のスタートまであと2年。「だれもが納得できる裁判員裁判に向けて、裁判官が証拠をより厳しく評価するようになった表れだ」との見方が出ている。一方、検察内部には「捜査能力の低下」を懸念する声もある。

 最高裁の集計によると、昨年に無罪判決を受けた126人の内訳は高裁20人(逆転無罪のみ)、地裁92人、簡裁14人。90年代後半は全国で年間50〜60人程度にとどまっており、昨年は97年の61人と比べて倍増した。裁判数の増加に伴って、有罪判決も増える傾向にあるが、地裁レベルでみると05年に有罪判決を受けたのは約7万7000人で10年前の約1.4倍にとどまり、無罪の増加率を下回っている。

 今年も各地で「無罪ラッシュ」が続く。鹿児島県議選の「買収事件」で公選法違反の罪に問われた県議ら12人(2月、鹿児島地裁)▽京都・仁和寺宿舎への現住建造物等放火の罪で元修行僧(同、京都地裁)▽死者2人を出した大阪市北区の文化住宅火災で同罪に問われた男性住民(3月、大阪地裁)などだ。

 住宅火災の公判では、放火を認めたとされる男性(33)の捜査段階の供述をめぐり、裁判長が「刑事は勘だけに頼って、取り調べ中に怒鳴り、被告の言い分を聞かなかった」として強引な「自白」を認定し、調書を証拠として採用しないという異例の決定をした。判決では、「電気コードの故障による出火の可能性も否定できない。物証を軽視した悪しき捜査の典型だ」とまで批判した。

 大阪弁護士会・刑事弁護委員会元委員長の戸谷茂樹弁護士も、この1年半の間に、大阪地裁所長襲撃事件の成人2人を含め、同地裁と同簡裁で計4人の無罪を勝ち取った。「被告の訴えをきちんと聞いてくれるなど、裁判官の姿勢が変わってきたと感じる場面が増えた」という。

 刑事裁判に詳しい渡辺修・甲南大法科大学院教授は、09年5月までに始まる裁判員制度を見据え、証拠を評価する裁判官の目が厳しくなったとみる。「模擬裁判などを通じ、裁判官は市民が十分納得できるだけの証拠がそろわないと有罪を出しにくいと感じているようだ。一定の心証を得て、プロ感覚で判断してきた従来の姿勢は変わりつつある」

 一方、検察側は危機感を抱く。長勢法相は4月、全国8高検の検事長を集めた緊急会議で、自白の引き出し方や起訴の判断への批判が強まっていると指摘し、「国民の信頼を失わせることになりかねない」と苦言を呈した。ある検察幹部は「証拠を広く集め、最良の証拠を見いだすという捜査の基本が、おろそかになっているように感じる」と明かす。

 大阪地検の三浦正晴検事正も、6月の着任会見で「最近、全国的に無罪が多い印象がある。裁判員裁判に向け、わかりやすい立証に努めていかねばならない」と話した。




無罪判決が増えている、というのは別段ニュートラルに考えれば問題点はない。無罪判決が増えようが、有罪判決が増えようが、客観的には、妥当で正当な結論であれば、問題点はないはずだ。

しかし記事では、捜査などに問題点があり、それが結果的に無罪判決の増加をきたす原因であるという立場から見てる。

記事にある、検察側の言う「捜査能力の低下」という理由で、無罪判決が増えているのだとすれば、本来、起訴すべき事件でないものを起訴していた、ということになる。捜査能力が低下したおかげで、まともな捜査をすれば被告人が起訴されないものまで、起訴していたとすれば、これは訴訟経済にも反するような気がする。

警察の取り調べの段階で、捜査官が怒鳴って、被疑者に強引な自白をさせる、というのは明らかに論外で、こんなものは違法以外の何者でもなく、これは無罪判決が出て当り前だ。

この記事で、今回、問題点があると個人的に思ったのは、記事の後半部分に書かれていることである。

それは、「09年5月までに始まる裁判員制度を見据え、証拠を評価する裁判官の目が厳しくなったとみる」という箇所だ。

この理由ずけとして、「裁判官は市民が十分納得できるだけの証拠がそろわないと有罪を出しにくいと感じているようだ。一定の心証を得て、プロ感覚で判断してきた従来の姿勢は変わりつつある」

ここで「一定の心証を得て」プロ感覚で判断してきた従来の姿勢、というのが、多いに気になるところである。ある意味で、一定の心証、などという恣意的なもので、刑事裁判で判決など出されては、国民からすると、たまったものではないと感じる。

それに裁判員制度が出来たからといって、特に判決内容が変わるようでは困る。裁判員制度があろうがなかろうが、結論は同じであるはずだ。

何せ、裁判での審理、というやつは真理、真実を探求する場であったはずだ。真実は一つなのであって、裁判のあり方や方式如何に限らず、結論、つまり判決は同じものであるはずだ。

こう考えると、今回のような無罪判決の増加は、おかしな裁判が減り、真っ当な裁判が増えたということになってしまう。つまり当り前の判決が、当然のように行われるようになった。または、やっとまともな裁判が日本でも行われるようになってきた、という感じになってしまう。

だが、これだとやや極端な解釈だ。記事で紹介されている大学教授の分析も、どれほど的を得ているのか、やや気になるところもある。

無罪判決の増加した背景の、より正確な分析が知りたいものだ。

2007年7月9日月曜日

偽ジョブズ

通称、「偽ジョブズ」のブログが最近、有名になっている。アップルのスティーブ・ジョブズの名前を使って、色々な面白いことを書いてるブログのこと。

実はこのブログ、ここと同じ「ブロガー」でやっている。タイトルは「The Secret Diary of Steve Jobs」。

一体、誰がこのブログを書いているのか、誰にも分からない。CNETの記事でも最近、このブログが取り上げられた。ブログの書き手について色々と推理している。

CNET JAPANの記事で、この偽ジョブズがiPhoneについて色々と語っている記事を載せている。

なかなか笑わせてくれる文章だが、おそらく、Macの熱烈なファンか、エディター辺りが偽ジョブズの正体ではないだろうか。文章力からすればエディターっぽいし、アップルの詳しい知識は昔からの熱烈なファンだろう。

まあ、ここまでやれば、一つの独立した人格になっているのは理解できる。かなり有名なになってしまったし、アクセス数も多いようだから、偽ジョブズ本人も、ブログをやっていて面白いだろう。

こんなユニークなブログが同じ「ブロガー」にあると、ちょっと親近感を覚える。

2007年7月7日土曜日

大学図書館の蔵書が読めるようになる

大学図書館にある蔵書をネットで読めるようになる。なんとも有り難いことだ。なかなか嬉しいニュース。


「慶大とグーグル、蔵書データ化で提携…ネット公開へ」(Yomiuri Online 記事を引用)

 慶応大学は、インターネット検索サービス大手のグーグルと提携し、学内図書館に所蔵する古書約12万冊を電子データ化し、インターネットで公開することを決めた。


 データ化するのは、室町〜江戸時代にかけて作られた御伽草子(おとぎぞうし)など和装本9万冊と、明治から昭和初期の文献3万冊。著作権保護期間が終わった、これらの本を撮影し、文字の読み取り処理をしてデータ化する。作業はグーグルが担当し、8月から開始、作業を終えたものから順次公開していく。

(2007年7月7日23時18分 読売新聞)



ネット上で公開され、内容が読める本は、著作権のきれたものになる。まあ、それは当然だ、新しい本をネット上で読めるようにしたら、本を買わなくなる。

公開されるものは、室町時代から江戸時代の御伽草子の和本とか、明治から昭和初期の本だから、この時代の歴史研究や文学研究をする学生や社会人にとっては、おおいに福音だ。

大学図書館というと、意外と閉鎖的でその大学の学生や研究者、その大学に講師として教えに来ている人など、利用できる人間は限られていた。それ以外の人間は利用できなかった。

他大学の図書館を利用したい場合は、自分の通う大学図書館に紹介状を書いてもらって、それで、かなり制限をつけられた上で、自分の利用したい図書に限って利用できたと思う。

今でもそうだろう。そんな中でネット上で図書館の文献を利用できるようにした慶應の判断はなかなかすばらしいものがある。これは多いに他大学は真似をして欲しいものだ。

この新しい蔵書を読めるサービスで、特に地方の人は恩恵を受けるのではないか。本など、地方のかなり田舎に行けば、あまり売ってないものだ。公共図書館だって、本屋だって、遠くにあったり、あっても規模が小さくて、利用したい本がない、という場合も多いだろう。

その意味では、学問研究は勿論のこと、多くの情報や知識、思想などに接する機会が少なく、実質的に都市圏と情報格差が存在したことも事実だろう。やはり知識や情報を得るには、大都市の方がだんぜん今でも有利だ。

そうゆう環境にあって、今回の慶應のサービスはかなり意義深いものだ。近くに図書館がなく、しかるべき本が手に入らないばかりに、書く事のできないテーマや研究もあったはずだ。それでかなり不利な思いや、不便な思いをした人も少なからずいるに違いない。

こうしたサービスは、おそらく徐々にではあるが、少しづつ充実していくに違いない。知識や情報で、通う大学や住んでいる地域で格差の出ない社会が望ましい。そうした望ましい社会に少しづつ近づいているに違いない。

2007年7月6日金曜日

現代美術について

現代美術については、昔は興味があったが、最近ではあまり興味を持っていない。

興味がなくなった理由は、現代美術が難解で抽象的な作品が多く、わかりにくいから、という意味ではない。現代美術の多くは抽象的ではあるが、むしろ、それほど難解で分かりにくいものは少ないだろうと思っている。

興味を失ってきたのは、すでにある作品や芸術の二番煎じになっているものが多いのではないか、と思われる時が多く、観ていてシラケるからだ。

たいした作品ではないのに、作品についての解説や考え方などは立派でいっちょまえだが、作品がその言葉についていっていない。言葉の方が作品よりも立派なら、それは美術ではなく文学ではないかと言いたくなる。

ちなみに現代美術は分かりやすいものだとさえ思う。それは現代作品は、もっぱら若い奴が好きで、歳を取るに従って古典が好きになるから、という理由だけではない。

何しろ、現代作品の方が古典よりも最初に観た時のインパクトは強い。そしてずいぶん面白がることができる。最初に感じる面白さは無類だ。これは古典にはあまりないものだ。

だが、興味を失うのは現代作品の方が早く、興味や趣味が持続するのが古典だ。古典は長く生き残ってきたから、「古典」というのだが、別の言い方をすれば、長い間鑑賞されても、多くの人が飽きない作品だということだ。

現代作品はわりと思想を全面に出して、その思想の具現化という雰囲気がする。思想が重要視される美術でもある。作家独自の思想が重要視されるから、作品よりも思想の方が全面に出やすい。

だから文字で書き表した方が、美術であっても、面白かったりする。デュシャンの「泉」がその典型かも知れない。あれは観ても意味を持たない。

文字で作品の思想を伝えた方が面白いのであれば、美術の意味が曖昧になる。もしかしてこれは文学かも知れないとさえ思う。

つまり物体から離れた言葉の理念が一人歩きしているところが、現代美術にはあるのではないかと感じてしまう。これは自分で勝ってに感じているだけなので、それ以上の意味はない。

それぞれの作品は、ある作家の独自の理念に従って実態化された造形物だったりする。しかし理念の具現化だから、その理念を廻っていくつも作品が作られて産み出されて、ついには袋小路に行き着く。理念を廻って回転したエネルギーが作品に過ぎない。

またそうした現代作品の持つ理念を廻って、色々と論じたり考えたりすることに、もう意味を見いだせずいる。

そんなことをしたって、別段何も出てこないばかりか、作品の理解にもたいして貢献でず、また自分の思想だってたいして鍛え上げることもできない。

現代作品も、すでにある何かの型を踏まえたものも多いという気がして、もうこれはそれだけで現代美術とさえ言えない代物かも知れない。つまり現代美術とは美術からの逃避である。

2007年7月5日木曜日

教員免許更新の科目

教員免許の更新に関する記事が出ていた。更新の内容に関わるものについて。


教員免許更新、「対人関係」「使命感」など5科目で講習」(Nikke Net より記事を引用)

 2009年4月から始まる教員免許更新制について、文部科学省が講習方法など具体的な制度作りを急いでいる。教員の質を重視し、講習は指導力だけでなく「対人関係」「使命感」など5科目にする方針。児童・生徒や保護者らとの関係に配慮できる力も求める。同省は「よほど問題がない限り修了できる」としているが、修了基準は決まっていない。
 今国会で成立した改正教員免許法は、免許に新たに10年の有効期限を設けた。更新には期限満了前の2年間に30時間以上の講習を受けることが必要。詳細は政省令で定めるため、文科省が作業を進めている。今年度中にまとめる。


教員免許の更新内容がどんなものなのかと思っていたが、その部分的なものが記事に載っていた。

もっとも講習方法はまだ決ってないし、修了基準も決っていない状況。

それにしもて面白いのは、講習で実施される科目だ。「対人関係」とか「使命感」という名称の科目だ。

こんな名称のものが教員免許更新のための講習科目になるのかと思うと、やや違和感は感じる。そもそも、「対人関係」だの「使命感」だのというものが、講習のための科目になるのだろうか。

「対人関係」というのは、おそらく心理学か何かの科目だろうと思うが、何を問題にしている科目なのか、科目名からでは判然としない。

いじめ問題などを受けて、生徒と生徒との間の対人関係をどう考えるか、という意味での「対人関係」なのか、それとも教師にとって、職場や大人の社会で上手く会話などできるようにするための「対人関係」なのか、判然としないということだ。

まあ、上記の2つの意味での「対人関係」(考えてみれば、「対人関係論」としていないところからして、客観的な知識の体系ではないような気がする)は両方とも教師にとっては必要なのだろうが、教員免許の更新を受けない我々一般市民にも、一応は内容を明確してして欲しいと思う。

もう一つの科目である「使命感」というのは、一体何なのだろうか。使命感というのは、もちろん教師としての使命感だろうが、使命感というのは、そもそも一律に権力側がチェックできる内容のものではないと思う。

使命感というのは、通常は個人の信条から出てくるものだろうと思う。だから内容的に一律なものではないし、使命感があるかどうかを、要件を立てて、客観的に評価するものでもないような気がする。

例えば、免許を更新する教師に対して、面接したりペーパーを読んで審査する審査官などが、ある要件立てをして、それに教師の発言した内容から、その要件に合うかどうかを判断して、この者には使命感がある、として更新にパスするか否かを判断する、ということになるのだろう。

これはどうも違和感がある。使命感があるか否かを判断するには、やはり、審査する側の人間の能力とも関係があるはず。審査する人間の信条や人格や経験などで、使命感があるか否かの判断内容も自ずと違ってくるはずだ。

こうした問題点について議論したのか、というと、それは分からないが、たぶん、してないだろうと推測する。そうゆう面倒なことは議論したがらないだろうし。

ともかく、案の定、更新の内容はあまりたいしたものではなく、実質的に意味を持たないような形式的なものに没するような気がする。これから更新の際の講習などの内容が明確になるのを待って、よく、見ておくようにしたい。

2007年7月4日水曜日

社保庁職員の退職

社会保険庁の職員の退職が増えているとうニュースがあった。これが今後どうなるのか良く見ておく必要がある。


「徒労感・見切り…社保庁職員、「自己都合」退職が急増」(asahi.com より記事を引用)
2007年07月04日15時22分

 保険料の不正免除や年金記録のずさんな管理など不祥事続きの社会保険庁で、「自己都合」を理由に退職する職員が急増している。06年度は391人で、02年度のほぼ3倍に達した。国民の厳しい批判にさらされて、年金記録問題では今夏のボーナスの自主返納を求められ、3年後には組織も解体される。若い職員が将来に見切りをつけるだけでなく、定年間近のベテランが「疲れ果てた」と辞めていくケースが多いという。

 社保庁によると、02年度の退職者593人のうち、「自己都合」退職は約2割の132人で、定年や退職勧奨が大半だった。だが、年金記録の「のぞき見」や裏金作りが発覚した04年度以降、退職者の総数に大きな変化がないのに、自己都合は04年度193人、05年度307人と急増し、06年度は391人と退職者の約7割を占めた。この間、退職を後押しするような制度変更はなかったという。

 今年度のデータはまとまっていないが、年金記録が問題になった最近も増加傾向に変わりないという社会保険事務局もある。大阪社会保険事務局によると、管内で4月以降に退職した3人はすべて自己都合で、「記録問題への対応で人手が足らない。今辞められてダメージが大きい」と嘆く。

 全国社会保険職員労働組合によると、自己都合退職は若い世代と50代が多いという。芳賀直行書記長は「定年までもう少しのところで、『もういいや』とあきらめてしまう傾向が強い。採用もままならず、定員割れしている県もある」と話す。

 最近、社会保険事務所を定年前に退職した50代の男性は「体力的にも精神的にも疲れた」と話す。昨年の国民年金の不正免除問題では、対象者におわびするため住宅地図を片手に戸別訪問し、後始末作業で連日の徹夜。その後も年金相談や悪質未納者に対する強制徴収などで、午前0時近くまで残業が続いた。

 「組織解体もやむを得ないが、まじめに仕事をしても社会に理解してもらえないのがつらかった。今は、辞めてほっとした気持ち」。地元で再就職した。

 同じ事務所に勤めていた20代の職員は「田舎に帰って新しい仕事を見つけたい」と9カ月で辞めてしまったという。

 成立した社保庁改革法で同庁は10年1月をめどに廃止される。年金業務は非公務員型の「日本年金機構」に移され、多くの業務が民間委託される。1万6800人の社保庁職員(常勤)を12年度までに1万3000人に減らす計画だ。


個人的に、社会保険庁の改革などできないだろうと思っていた矢先に、こんなニュースが出たので驚いた。

なぜ職員が退職していくのか不透明だが、個人的な想像では、もう民営化されることが目前で、長くいても仕事が勤まらないと判断したからだろう。

民間になってしまえば、今までのような、文字通り「お役所仕事」では通らない。今までのようなずさんの仕事ぶりもできない。もう社会で使い物にならない自分を自覚して去っていったのではないかと想像する。特に高年齢の職員の場合はそんな感じだろう。

記事にあるような「おわびの個別訪問」と「徹夜と残業」でやんなって辞めた、というのは、やや情けないと思うが、こうした職員は去ってもらってもいいだろう。

若い職員の場合がよく分からない。社保庁に止まっても特に不利というわけではないだろう。他の企業に行っても中途採用だし、正社員になるのは今でも大変だろう。その意味ではこのまま止まって、新しい社保庁で仕事をした方がいいだろうと思うけど。

記事にある、職員を「1万6800人の社保庁職員(常勤)を12年度までに1万3000人に減らす計画」というのは、このままでは意外とあっさりと達成されるのではないか?

ところで腐った組織の代表のような社保庁だったが、ここは改革は不可能だろうと思っていた。公務員組織、役所など、所詮は改革は難しいだろう考えるのが、世間では一般的だろう。だから個人的にも、社保庁の改革はできないだろうと思っていた。

しかし、職員の退職が急増しているというから、もしかすると、改革はできるのではないかと思うようになった。

何せ、改革を阻む職員自体が減るのだ。もっとも職員が減るだけで、職員全員がいなくなるわけではないから、改革は楽ではないだろうが、少しは改革できる可能性は出てきたのではないかと思う。

いくら社保庁が廃止されて、日本年金機構に形を変えても、同じ人間がやっているわけだから、根っこの部分で変るはずもない。だからどれだけ改革ができるのかは、あまり期待できるものではない。

しかし、職員の総体的な人数が減れば、それだけ士気も落ちて、わりと改革がしやすくなるのではないか、などと思ったりする。この社保庁改革、なかなか見物かも知れない。

2007年7月3日火曜日

教育についての覚え書き

以下は、教育についての覚え書き。教育に関するいくつかのニュースと、ちょとしたメモ。


来春開校の教職大学院についての記事を読んだ。記事を引用する。


「来春開校の教職大学院、21大学が認可申請」(asahi.com より記事を引用)
2007年07月03日

 文部科学省は3日、来春から開校予定の教職大学院について、21の大学から設置認可の申請があったと発表した。国立15校(私立との連合を含む)、私立6校で、定員は計766人の予定。今月18日に大学設置・学校法人審議会に諮問し、審議が順調に進めば11月末に認可される見込み。

 教職大学院はロースクール(法科大学院)などと同様の「専門職大学院」。学校運営や授業研究のリーダーとなる教員の養成を目指す。

 申請があった大学と定員は次の通り。

 【国立】北海道教育(45)宮城教育(32)群馬(16)東京学芸(30)上越教育(50)福井(30)岐阜(20)愛知教育(50)京都教育=京都産業、京都女子、同志社、同志社女子、佛教、立命館、龍谷と連合=(60)兵庫教育(100)奈良教育(20)岡山(20)鳴門教育(50)長崎(20)宮崎(28)【私立】東京福祉(30)聖徳(30)創価(25)玉川(20)早稲田(70)常葉学園(20)



教職養成を専門とする大学院の設置を政府が検討していたのは知っていたが、まさか、来春から開校されるとは知らなかった。

この大学院が、一部のエリート教員を養成するための大学院なのか、それとも教職課程を大学院に作り替えたものなのか、そこの部分がややはっきりとしない。この点はあとで調べるつもり。

個人的には教職を専門とする大学院の設置には反対だった。その理由は何の意味もないからだ。教職を希望する学生には、大学院に進学しなければならないため、学費の負担が重すぎる。同じことはロースクールについても言えることだが、これでは金に余裕のある学生しか進学できないことになる。

奨学金の制度を充実させても、将来はは安月給の教師生活が待っているだけだ。ロースクールのように、弁護士にでもなって、そこそこの年収が貰えるわけではない。義務教育の教師など、その大半は教務員になるわけだから、奨学金の返済はキツいだろう。

また教職専門の大学院を作ったとしても、内容的に意味があると思えない。教職課程を大学院組織に改組すれば、自動的にそこで教える内容も高度化するわけではない。おそらく内容的には、従来の教職科目と大差ないだろう。

いくら大学院を作っても、そこで教えている大学の教師は同じ人間だ。だから同じ内容の講義しかできないはず。しかも、従来の教職課程の講義は、内容的に恣意的なものが大部分だった。自分が出ていた教育原理の講義内容は、フランスの教育についてだった。それも実権的な教育をしている小さな私立学校を扱ったドキュメンタリー(確かテレビ番組)を教室で流したりする、そんな内容だった。

こうした講義が行われているのが実際で、教職課程の講義に出ても、教師として教える能力の向上や教壇に立つための基礎的な知識や技術の習得などは、はっきり言って一切なかった。これでは実際の教育現場で役に立たないはずだ。

教育学の講義が実際の教育現場で役に立たたないと言われる。それは机上の空論だとか、抽象論だとか、そういった理由ではなく、実は教師になるために必要な知識や技術とは直接無関係な内容を講義しているからである。

これは自分が体験したことであるから、言わば体感で知っている。こうした講義では、まるでレクリエーションのような授業内容を紹介したり、イベント用の授業を紹介したり、そんなことで講義が終ってしまう。また自殺しか中学生か何かの事例を紹介して、あなたたち学生はこの事例をどう思うかというアンケートなど書かせたりして終ってしまった。

授業中に生徒の注意を引きつけるにはどうしたら良いのか、生徒にちゃんと理解させるには、どういった方法を取れば良いのか、悪い生徒や言う事をまるで聞かない暴力的な生徒には、どういった対応をすべきなのか、など、これらのことは、実は従来の教職課程の中ではまったく教えられていないし、テーマにもなっていない。

こうしたことをまるで知らないで教師になってしまうのが実際だ。教育学者は、こうした基本的な事項について講義する能力がないと思う。

それは、今まで、広く教職というのは、たいした努力もせずに飯を食える職場だったからだ。一度教師になってしまえば、不祥事を起こさない限り首にはならない。たいして教師としての能力がなくても食っていけるという現実があった。

それで安定しているし休みも多く楽な商売だということで、就職先として良い、という認識が大学生の中にあり、それで教師になった連中が多かったはずだ。

そうした現実があるから、教えるために必要な技術だの知識だのと言ったものを、教育現場に反映させる必要性もたいしてないし、ニーズもなかったのだ。だから教育学の中ではたいした教育上の議論など無かったはずだ。はっきり言ってしまえば日本の教育学には実態がないのだ。

この新しい大学院には、教育学者以外にも、実際に教えている現役の教師やその他の講師を雇うのだろう。しかしそもそも教育の技術や実際的な知識など、ちゃんとした形になっていないし、きちんと言葉にされていないわけでから、やはり、上手くいかないだろうと思う。

実態のない教育学をいくら講義しても、現在、問題になっているいじめ問題や学力崩壊や学級崩壊などに対処などできると思えない。そもそもそれらに対処するための知識も技術も何もないのだから、教えることなど不可能だ。

現役の教師や評論家や行政側の人間も、事情は同じようなものだろう。試行錯誤の状態で、学生に説明できるだけの知識や技術、情報の蓄積はないと思うが。

その点で、現在の様々な教育問題に対処できる優秀な教員を養成したいというのが、その教職大学院の設置趣旨なのだろうから、かなり疑問がある。はっきり言って金と時間の無駄だろう。


次は、呆れてしまうニュースだ。


「万引き容疑の大学講師、「講義終わるまで待って」と懇願」(asahi.com より記事を引用)
2007年06月20日

 万引きを見とがめた店の保安員にけがをさせたとして、奈良県警高田署は20日、強盗致傷容疑で京都市伏見区新町、畿央大学非常勤講師大石志保(もと・やす)容疑者(49)を逮捕した。大石容疑者は犯行後、店に隣接する同大学構内に逃げ込み、追ってきた保安員に「講義が終わるまで待って」と頼んでいたという。

 調べでは、19日午後4時ごろ、同県広陵町内のショッピングセンターで、栄養ドリンク2本(計約600円相当)をファイルケースに入れ店を出ようとしたところを店の女性保安員(50)に呼び止められてもみ合いになり、指のねんざなど1週間のけがを負わせた疑い。容疑を認めているという。

 同署によると、大石容疑者は大学構内に逃げ込み、追ってきた男性保安員らに見つかると「講義があるので待っていてほしい」などと説得。教育心理学について90分間、数十人の学生に講義した。男性保安員は講義が終わるころ再び同大へ行き、大石容疑者をスーパーへ連れ戻して通報したという。



これが「教育心理学」を担当している教師のやることか。言うまでもなく、教育心理学という科目は、教職課程での必修科目である。こうした人間が教師になるべき人間を教育しているのだ。まったく呆れる。


もう一つ、気になるニュース。教師による生徒いじめ。


「「おバカ」と児童の背中に張り紙 神奈川、一時不登校に」(Sankei Web より記事を引用)

 神奈川県小田原市立小学校の20代の男性教諭が昨年1月、当時小学6年生の男子児童の背中に「僕は女子更衣室に侵入しようとして失敗したおバカさんです」という事実ではない張り紙をしていたことが3日、分かった。

 児童は「学校に行くのがいやになった」と翌日から不登校となった。校長と教諭が謝罪し、児童は1カ月後から再び登校、無事卒業したという。

 同市教育委員会は昨年6月、教諭と校長を訓告処分し、教諭は今年4月から別の小学校に勤務している。

 市教委によると、教諭は昨年1月30日、女子児童からこの男子児童が更衣室に入ろうとしていると聞き、ほかの児童もいる教室で紙を張り付けた。泣きだした男子児童に対し、教諭は「泣いているんじゃないよ」としかったという。

 実際には更衣室に入ろうとした事実はなく、教諭は学校側に「確認しないで軽い気持ちでやった」と説明した。

 児童の母親が翌31日、学校に抗議して発覚した。


ここで、個人的に気になったのは、この問題になっている教師が20代だということである。これが何が問題なのかというと、今年とか来年には団塊の世代が定年退職して、大量に教師がいなくなるから、その分、新卒の採用はいきなり多くなったようだ。

しかし、それはつい1、2年前は違う。これまではずっと、もう10年以上も前から、少子化の進展で、新卒で教師を採用する人数は極端に少なかった。ほとんど採用などしていなかったくらいだろう。

自分も、10年以上までにまたまた知ったことで、当時、都立校での社会科教師を採用した人数は、たった1人だけだった。

つまり実質的に、もう教師は採用していなかったのだ。それが去年だか今年だかから、団塊世代の大量定年で、新卒の教師を採用するようになった。

だから今の30代と20代の教師というのは、実質的に数がもの凄く少ないはずなのだ。

この記事で問題になっている教師は20代であるから、まだ新卒で教師をほとんど採用しなかった時代に、教師になった人間、ということになるだ。年齢からしてそうなる。これが気になるところだ。

つまり都道府県の採用試験では、選び抜かれて教師になった者であるはず。ことによると、1人、2人くらいしか採用されなかった試験かも知れないのだ。競争率でいうと200倍とか、そんな数字になりかねない試験だろう。

そうやって採用された優れているはずの若い教師が、この有様なのだ。これは異様だろう。よっぽど採用した側の、つまり教育委員会の連中に見る目がないのだろうか。いったい、どういった基準で教師を採用しているのだろうか。

最近は学校でおかしな教師がたまに出現しているから、採用にも慎重に相手の人格などを判断していると思う。それも採用人数が少なかったわけだから、慎重に採用を選ぶことができたはず。それなのに、こんな若い教師がいるんじゃ・・・・・というのが正直な感想だろう。

教育委員会ななど教師を採用する側も、教育が必要なのではないのか?こうした連中が、新しく設置される教職大学院に教えに来たとしても、まるで役に立ちそうにないのは明白だ。やっぱり新しい大学院の設置は意味を持たないのではないか。

2007年7月1日日曜日

サムライ債と円安

サムライ債(円建て外債)についての記事と主観的なメモ。


「円建て外債の発行急増、6月は最高の8490億円」(Nikke Net より記事を引用)

 海外企業が日本で発行する円建て外債(サムライ債)の発行が急増している。6月の発行額は8490億円となり、月間としては6年9カ月ぶりに過去最大を更新する見通し。日本の金利は上昇傾向にあるが、欧米に比べ低金利で調達できることが背景。円を外貨に替えて運用する円借り(円キャリー)取引と同様の外為取引が生じ、円安の一因となっている。

 2007年1—6月累計では1兆2600億円となり、上半期としても2000年1—6月(9080億円)を上回り、現在と同様の集計が可能となった1998年以降では最大となる見込み。




通称、サムライ債と呼ばれる円建ての外債の発行が増えることで、円を外貨に変える動きがあり、これで円を売るわけだから、その結果円安になっているのではないか、と記事にはある。

日本で資金を調達する外債の発行が多くなっているということは、またしても日本の対外債権の総量が増えていることになる。日本政府や機関投資家が米国債で運用している、巨額な資金に加え、日本の個人投資家からも、こうして資金を集め、海外に流れて出ていく。

日本は本当に世界の金融をファイナンスしているのではないか。日本の資金が無くなったら、世界の金融もかなり違ったものになるかも知れない。

こうした日本の資金や対外債権の量の多さに比べて、国際社会における日本の発言権はどうして低いのか。完全に国際社会からなめられているとしか思えない。

それにしても、これだけの外債を引き受けているのであれば、日本の資金にもまだ余裕があるということか。

去年からずっと日経平均も上がってきているが、去年の5月の暴落など、株価が一旦暴落することが度々あり、その都度、個人投資家が傷ついてきたはずだ。その分、資金も消えてなくなっているはずだが、それでもまだ日本には外債に巨額な投資するほどの余裕があるというのは、凄い気がする。

今年だけで、外債の発行額が1兆2600億円という数字なるわけだから、確かに円安に振れてもおかしくない。しかし、外資が円を外貨に変える時になると、円安からより、円高になってからの方が断然有利だろう。

現在のように123円付近にいる場合には、外貨に変えるのは不利だ。しかも、一旦は124円ほどになり、これからもしかすると、円安はさらに進行し、125円を越えるかも知れない状況の中で円建ての外債を発行するは、あまり適してない為替の状況がある。

これは円ドルでだが、ユーロでもこのところ円安が進んでしまっている。もし円から外貨に変えるとすれば、ユーロやドルでは為替で減価が生じてしまう。

せっかく発行して調達した資金を為替で目減りさせては意味がない。特に資金全体の額が多くなればなるほど、為替の問題は大きい。

例え為替で減価しても、日本より他に資金を集められる国が他になく、しかも、日本の低金利の状況を加味して考えた場合は、為替の問題を考慮しても、断然有利だ、というなら分かるが、仮に自分が外債を発行する側にいるのなら、そんなことはしない。

もし自分が外債を発行する立場の人間であれば、まだ円が安いから外貨に変えることはせず、一旦、別のところで調達した資金を活用することを考える。

例えば株に投資することを考える。現在の東証は底堅い動きが続いているし、投資するには良いと思う。一旦、日本で株を買っておいて、ある時期、円高に向かう直前の地点で、株式を売る。

円高に急激に動けば、輸出株を中心に売られることになり、日経も一旦は、暴落するだろう。その直前で売ってしまう。外資であれば、この為替の動きを事前に掴める機会もあるかも知れない。

そうした情報源を活用して株を売り抜ける。株を売り抜けたところで、円高の進行を見守りながら、いい時期に外貨に変えて、資金を本国に持ち出す、ということをやる。

抜け目ない外資だから、その程度のことは考えると思うのだが、実際ははたしてどうなのだろうか。実際の運用が気になるところだ。