2007年7月12日木曜日

無罪判決が急増しているらしい

無罪判決が急増、というニュース。記事の記録とメモ。


「無罪判決が急増 証拠評価の厳格化の表れ?」(asahi.comより記事を引用)
2007年07月09日10時03分

 刑事裁判で無罪判決が急増している。最高裁によると、昨年は全国各地の裁判所で計126人(速報値)に無罪が言い渡されており、10年前の2倍以上にのぼる。市民が裁判官とともに重大事件の審理にあたる裁判員制度のスタートまであと2年。「だれもが納得できる裁判員裁判に向けて、裁判官が証拠をより厳しく評価するようになった表れだ」との見方が出ている。一方、検察内部には「捜査能力の低下」を懸念する声もある。

 最高裁の集計によると、昨年に無罪判決を受けた126人の内訳は高裁20人(逆転無罪のみ)、地裁92人、簡裁14人。90年代後半は全国で年間50〜60人程度にとどまっており、昨年は97年の61人と比べて倍増した。裁判数の増加に伴って、有罪判決も増える傾向にあるが、地裁レベルでみると05年に有罪判決を受けたのは約7万7000人で10年前の約1.4倍にとどまり、無罪の増加率を下回っている。

 今年も各地で「無罪ラッシュ」が続く。鹿児島県議選の「買収事件」で公選法違反の罪に問われた県議ら12人(2月、鹿児島地裁)▽京都・仁和寺宿舎への現住建造物等放火の罪で元修行僧(同、京都地裁)▽死者2人を出した大阪市北区の文化住宅火災で同罪に問われた男性住民(3月、大阪地裁)などだ。

 住宅火災の公判では、放火を認めたとされる男性(33)の捜査段階の供述をめぐり、裁判長が「刑事は勘だけに頼って、取り調べ中に怒鳴り、被告の言い分を聞かなかった」として強引な「自白」を認定し、調書を証拠として採用しないという異例の決定をした。判決では、「電気コードの故障による出火の可能性も否定できない。物証を軽視した悪しき捜査の典型だ」とまで批判した。

 大阪弁護士会・刑事弁護委員会元委員長の戸谷茂樹弁護士も、この1年半の間に、大阪地裁所長襲撃事件の成人2人を含め、同地裁と同簡裁で計4人の無罪を勝ち取った。「被告の訴えをきちんと聞いてくれるなど、裁判官の姿勢が変わってきたと感じる場面が増えた」という。

 刑事裁判に詳しい渡辺修・甲南大法科大学院教授は、09年5月までに始まる裁判員制度を見据え、証拠を評価する裁判官の目が厳しくなったとみる。「模擬裁判などを通じ、裁判官は市民が十分納得できるだけの証拠がそろわないと有罪を出しにくいと感じているようだ。一定の心証を得て、プロ感覚で判断してきた従来の姿勢は変わりつつある」

 一方、検察側は危機感を抱く。長勢法相は4月、全国8高検の検事長を集めた緊急会議で、自白の引き出し方や起訴の判断への批判が強まっていると指摘し、「国民の信頼を失わせることになりかねない」と苦言を呈した。ある検察幹部は「証拠を広く集め、最良の証拠を見いだすという捜査の基本が、おろそかになっているように感じる」と明かす。

 大阪地検の三浦正晴検事正も、6月の着任会見で「最近、全国的に無罪が多い印象がある。裁判員裁判に向け、わかりやすい立証に努めていかねばならない」と話した。




無罪判決が増えている、というのは別段ニュートラルに考えれば問題点はない。無罪判決が増えようが、有罪判決が増えようが、客観的には、妥当で正当な結論であれば、問題点はないはずだ。

しかし記事では、捜査などに問題点があり、それが結果的に無罪判決の増加をきたす原因であるという立場から見てる。

記事にある、検察側の言う「捜査能力の低下」という理由で、無罪判決が増えているのだとすれば、本来、起訴すべき事件でないものを起訴していた、ということになる。捜査能力が低下したおかげで、まともな捜査をすれば被告人が起訴されないものまで、起訴していたとすれば、これは訴訟経済にも反するような気がする。

警察の取り調べの段階で、捜査官が怒鳴って、被疑者に強引な自白をさせる、というのは明らかに論外で、こんなものは違法以外の何者でもなく、これは無罪判決が出て当り前だ。

この記事で、今回、問題点があると個人的に思ったのは、記事の後半部分に書かれていることである。

それは、「09年5月までに始まる裁判員制度を見据え、証拠を評価する裁判官の目が厳しくなったとみる」という箇所だ。

この理由ずけとして、「裁判官は市民が十分納得できるだけの証拠がそろわないと有罪を出しにくいと感じているようだ。一定の心証を得て、プロ感覚で判断してきた従来の姿勢は変わりつつある」

ここで「一定の心証を得て」プロ感覚で判断してきた従来の姿勢、というのが、多いに気になるところである。ある意味で、一定の心証、などという恣意的なもので、刑事裁判で判決など出されては、国民からすると、たまったものではないと感じる。

それに裁判員制度が出来たからといって、特に判決内容が変わるようでは困る。裁判員制度があろうがなかろうが、結論は同じであるはずだ。

何せ、裁判での審理、というやつは真理、真実を探求する場であったはずだ。真実は一つなのであって、裁判のあり方や方式如何に限らず、結論、つまり判決は同じものであるはずだ。

こう考えると、今回のような無罪判決の増加は、おかしな裁判が減り、真っ当な裁判が増えたということになってしまう。つまり当り前の判決が、当然のように行われるようになった。または、やっとまともな裁判が日本でも行われるようになってきた、という感じになってしまう。

だが、これだとやや極端な解釈だ。記事で紹介されている大学教授の分析も、どれほど的を得ているのか、やや気になるところもある。

無罪判決の増加した背景の、より正確な分析が知りたいものだ。