2007年7月6日金曜日

現代美術について

現代美術については、昔は興味があったが、最近ではあまり興味を持っていない。

興味がなくなった理由は、現代美術が難解で抽象的な作品が多く、わかりにくいから、という意味ではない。現代美術の多くは抽象的ではあるが、むしろ、それほど難解で分かりにくいものは少ないだろうと思っている。

興味を失ってきたのは、すでにある作品や芸術の二番煎じになっているものが多いのではないか、と思われる時が多く、観ていてシラケるからだ。

たいした作品ではないのに、作品についての解説や考え方などは立派でいっちょまえだが、作品がその言葉についていっていない。言葉の方が作品よりも立派なら、それは美術ではなく文学ではないかと言いたくなる。

ちなみに現代美術は分かりやすいものだとさえ思う。それは現代作品は、もっぱら若い奴が好きで、歳を取るに従って古典が好きになるから、という理由だけではない。

何しろ、現代作品の方が古典よりも最初に観た時のインパクトは強い。そしてずいぶん面白がることができる。最初に感じる面白さは無類だ。これは古典にはあまりないものだ。

だが、興味を失うのは現代作品の方が早く、興味や趣味が持続するのが古典だ。古典は長く生き残ってきたから、「古典」というのだが、別の言い方をすれば、長い間鑑賞されても、多くの人が飽きない作品だということだ。

現代作品はわりと思想を全面に出して、その思想の具現化という雰囲気がする。思想が重要視される美術でもある。作家独自の思想が重要視されるから、作品よりも思想の方が全面に出やすい。

だから文字で書き表した方が、美術であっても、面白かったりする。デュシャンの「泉」がその典型かも知れない。あれは観ても意味を持たない。

文字で作品の思想を伝えた方が面白いのであれば、美術の意味が曖昧になる。もしかしてこれは文学かも知れないとさえ思う。

つまり物体から離れた言葉の理念が一人歩きしているところが、現代美術にはあるのではないかと感じてしまう。これは自分で勝ってに感じているだけなので、それ以上の意味はない。

それぞれの作品は、ある作家の独自の理念に従って実態化された造形物だったりする。しかし理念の具現化だから、その理念を廻っていくつも作品が作られて産み出されて、ついには袋小路に行き着く。理念を廻って回転したエネルギーが作品に過ぎない。

またそうした現代作品の持つ理念を廻って、色々と論じたり考えたりすることに、もう意味を見いだせずいる。

そんなことをしたって、別段何も出てこないばかりか、作品の理解にもたいして貢献でず、また自分の思想だってたいして鍛え上げることもできない。

現代作品も、すでにある何かの型を踏まえたものも多いという気がして、もうこれはそれだけで現代美術とさえ言えない代物かも知れない。つまり現代美術とは美術からの逃避である。